詩人 「茨木 のり子」の生涯 (1) ― 2010/11/28 03:10

私は, 心が落ち込んだりしている時など, 時折, 茨木 のり子の詩集を読んで, 己の心を叱咤し, 奮い立たせる事がある.
では, 茨木 のり子とは, どの様な女性だったのか? 以下に彼女の経歴を追ってみよう.
詩人 茨木 のり子は, 2006年, 脳動脈瘤破裂によって自宅で急逝した. 享年 79 歳だった. 訪ねてきた親戚によって彼女の骸が発見された.
然し, 如何にも, きちんと生きる事を心掛けた彼女らしく, 遺書が用意されていたのである.
「私の意志で, 葬儀・お別れ会は何もいたしません. この家も当分の間, 無人となりますゆえ, 弔慰の品はお花を含め, 一切お送り下さいませんように. 返送の無礼を重ねるだけと存じますので. "あの人も逝ったか" と一瞬, たったの一瞬, 思い出して下さればそれで十分でございます」
何とも見事な最期ではないか.
茨木のり子 (本名 三浦のり子) は, 1926 年に大阪で生まれた.
高校時代を愛知県で過し, 上京して現・東邦大学薬学部に入学. その在学中に空襲や勤労動員 (海軍系の薬品工場) を体験し, 1945 年に 19 歳で終戦を迎えた.
戦時下で体験した飢餓と空襲の恐怖が, 命を大切にする彼女の感受性を育んだと言う.
敗戦の混乱の中, 帝劇で鑑賞したシェークスピア 「真夏の夜の夢」 に感動し, 劇作家の道を目指した.
直ぐに 「読売新聞第 1 回戯曲募集」 で佳作に選ばれ, 自作童話がラジオで放送されるなど社会に認知されていった.
1950 年 (24 歳) に結婚.
この頃から詩も書き始め, 1953 年 (27 歳) に詩人仲間と同人誌 『櫂』 を創刊. 同誌は谷川俊太郎, 大岡信など多くの新鋭詩人を輩出していく.
1975 年 (49 歳), 四半世紀を共に暮らした夫が先立ち, 以降, 31 年間にわたる独り暮しが始まる.
2 年後, 彼女は代表作の一つとなる 『自分の感受性くらい』 を世に出した. それは, かつて戦争で生活から芸術・娯楽が消えて行った時に, 胸中で思っていた事を謳い上げたものだったと言う.
< 自分の感受性くらい >
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
何と, しなやかで, したたかで, 強靭な精神力を持っているのだろうか. とても軟弱な私などには真似の出来ない生き様と認めざるを得ない.
それにしても, 最近の各界のリーダーたちは如何してしまったのであろうか? 安部サン, 福田サン, 麻生サン, 鳩山サン, 小沢サン...検察による証拠改竄事件等々...
尖閣諸島における中国漁船の衝突事故に関し, 「国内法に則って "粛々と" 進めて行く」 と大見得を切った菅内閣であったが, あの手この手を駆使する, ヤクザ同然の中国の恫喝に屈し, 粛々と河を渡れなくなってしまったらしい.
その位なら, 初めから, 14 名の乗組員と共に船長も一緒に国外退去させた方が, 国益を損ねず, 外交的にはもっとスマートな対応だったのではないだろうか.
尖閣諸島は日本固有の領土である, と国内に向って幾ら叫んでも意味はない. もっと国際社会に対してプロパガンダを展開すべきではなかったか, と言う気がするのは, 私だけだろうか? 核を持たない日本は, 世界に事実を明らかにし, 世界を味方に付けねばならない筈だ.
事の決断において, 決して過ちを犯さない, と言うのが真のリーダーなのである. そうではありませんか, 菅サン?
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はり・きゅう・マッサージ トミイ
http://www.ne.jp/asahi/shinqma/tommy/index.html
(なお, 診療予約時、「健康小話」 を読んだ, と言って戴いた患者さんは,
初診料が半額になります.)
心や身体に関する悩み事など, お気軽にご相談下さい.
E-Mail : tadashi.fukutomi@tcat.ne.jp
English speaking clients are welcomed!
Oil massage is available!
では, 茨木 のり子とは, どの様な女性だったのか? 以下に彼女の経歴を追ってみよう.
詩人 茨木 のり子は, 2006年, 脳動脈瘤破裂によって自宅で急逝した. 享年 79 歳だった. 訪ねてきた親戚によって彼女の骸が発見された.
然し, 如何にも, きちんと生きる事を心掛けた彼女らしく, 遺書が用意されていたのである.
「私の意志で, 葬儀・お別れ会は何もいたしません. この家も当分の間, 無人となりますゆえ, 弔慰の品はお花を含め, 一切お送り下さいませんように. 返送の無礼を重ねるだけと存じますので. "あの人も逝ったか" と一瞬, たったの一瞬, 思い出して下さればそれで十分でございます」
何とも見事な最期ではないか.
茨木のり子 (本名 三浦のり子) は, 1926 年に大阪で生まれた.
高校時代を愛知県で過し, 上京して現・東邦大学薬学部に入学. その在学中に空襲や勤労動員 (海軍系の薬品工場) を体験し, 1945 年に 19 歳で終戦を迎えた.
戦時下で体験した飢餓と空襲の恐怖が, 命を大切にする彼女の感受性を育んだと言う.
敗戦の混乱の中, 帝劇で鑑賞したシェークスピア 「真夏の夜の夢」 に感動し, 劇作家の道を目指した.
直ぐに 「読売新聞第 1 回戯曲募集」 で佳作に選ばれ, 自作童話がラジオで放送されるなど社会に認知されていった.
1950 年 (24 歳) に結婚.
この頃から詩も書き始め, 1953 年 (27 歳) に詩人仲間と同人誌 『櫂』 を創刊. 同誌は谷川俊太郎, 大岡信など多くの新鋭詩人を輩出していく.
1975 年 (49 歳), 四半世紀を共に暮らした夫が先立ち, 以降, 31 年間にわたる独り暮しが始まる.
2 年後, 彼女は代表作の一つとなる 『自分の感受性くらい』 を世に出した. それは, かつて戦争で生活から芸術・娯楽が消えて行った時に, 胸中で思っていた事を謳い上げたものだったと言う.
< 自分の感受性くらい >
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
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自分で守れ
ばかものよ
何と, しなやかで, したたかで, 強靭な精神力を持っているのだろうか. とても軟弱な私などには真似の出来ない生き様と認めざるを得ない.
それにしても, 最近の各界のリーダーたちは如何してしまったのであろうか? 安部サン, 福田サン, 麻生サン, 鳩山サン, 小沢サン...検察による証拠改竄事件等々...
尖閣諸島における中国漁船の衝突事故に関し, 「国内法に則って "粛々と" 進めて行く」 と大見得を切った菅内閣であったが, あの手この手を駆使する, ヤクザ同然の中国の恫喝に屈し, 粛々と河を渡れなくなってしまったらしい.
その位なら, 初めから, 14 名の乗組員と共に船長も一緒に国外退去させた方が, 国益を損ねず, 外交的にはもっとスマートな対応だったのではないだろうか.
尖閣諸島は日本固有の領土である, と国内に向って幾ら叫んでも意味はない. もっと国際社会に対してプロパガンダを展開すべきではなかったか, と言う気がするのは, 私だけだろうか? 核を持たない日本は, 世界に事実を明らかにし, 世界を味方に付けねばならない筈だ.
事の決断において, 決して過ちを犯さない, と言うのが真のリーダーなのである. そうではありませんか, 菅サン?
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(なお, 診療予約時、「健康小話」 を読んだ, と言って戴いた患者さんは,
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